11/02/2025

小字あれこれ その⑤ 団地建設

団地造成 四つの村に跨る

志手・椎迫・駄原・金谷迫





 前回の「小字あれこれ その➃ ため池と錦鯉」(2025年10月15日公開」で、志手老人クラブ共和会が2005(平成17)年5月に発行した「ふるさとだより17号」にあった「ふるさと年表『戦後60年・志手とその周辺』」を紹介しました(左の資料)。

 前回の「小字あれこれ その➃」では、この年表の「昭和40年代後半 駄原堤で錦鯉の養殖を始める」(赤色の下線を引いた部分)に注目して、いろいろ書きました。

 今回の題材はその下の四角で囲った出来事について書こうと思います。

 何が書いてあるか見てみます。「昭和48(1973)年 住宅団地高崎、にじが丘などの買収始まる。この頃から地区内で貸家アパートの建設が続き、水田の宅地化が進む」。「志手とその周辺」が大きく変わる節目となった年です。

 変貌を遂げた「志手とその周辺」の「変身前」と「変身後」の姿が冒頭の写真です。

 2枚の写真の上が現在、下が60年以上前の姿です。

 下の昭和36(1961)年撮影の写真には、志手の集落の前面に水田が、後背地の丘陵地帯にミカン畑がそれぞれ広がっています。

 現在の写真は「グーグル マップ」を複写したものです。「志手とその周辺」はどこもが住宅地になっています。

 2枚の写真に白い丸で囲んだところがあります。ここが高崎、にじが丘などの住宅団地です。〇を描いたのはこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者です。

 かつてミカンがあった丘陵地帯は順次造成されていき、「スカイタウン高崎」「サンシャインにじが丘」「パークシティ青葉台」などの名前で住宅地として売り出されていきました。

 ミカン畑が宅地になった話は、このブログ「大分『志手』散歩」の第1話「志手はどこにある?」(2021年7月17日公開)などで書いています。

 今回は志手集落の背後の丘陵地帯がミカン畑になる前の地図(明治21年刊行)と現在を比べようとする試みです。

 明治21(1888)年刊行の「村図大分郡三芳村」を基に志手の字図(あざず)を試作したことは「小字あれこれ その➁ 字図を作る」(2025年9月22日公開)で報告しました。

 明治時代の字図と現在の街並みを照らし合わせてみると、


 住宅団地が四つの村にまたがって造られたことが分かります。

 字図を基に昔これらの地域が何と呼ばれていたのか、もう少し詳しく見て行こうと思います。

 この先は下の「続きを読む」をクリックしてください。

毘沙門川の流れで比較すると


 「高崎」「にじが丘」などの住宅団地について少し調べるために、何年か前に大分市役所に開発登録簿を見に行ったことがあります。


 その時コピーしてもらった資料の一つが上の書類です。

 この資料にある「サンシャインにじが丘」は「スカイタウン高崎」とともに、この地域で最初に開発が手掛けられた住宅団地です。

 この中の「開発区域に含まれる地域の名称及び面積」には「大分市大字三芳字猪ノ木坪1340ほか140筆」とあります。

 「猪ノ木坪」が明治時代の村図のどこにあるか見てみましょう。


 上の地図は、明治21(1888)年刊行の村図大分郡三芳村にこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者が手を入れたものです。

 志手村と椎迫村は明治時代の初めに合併して三芳村になっています。

 このブログの筆者が「猪ノ木坪」を丸で囲ってみました。この辺りは今の地図でいえば、どのあたりになるのか。

 今の地図と昔の地図を見ていて気づきました。毘沙門川(住吉川)で比較できないかと。川の流れを青い線で少しなぞってみました。


 それが上の地図です。これと現在の地図を比較します。


 今の地図が上です。青く塗った部分は同じところと考えられます。

「猪ノ木坪」を起点に小字を記すと


 明治時代の地図と現在の地図を重ね合わせてみると、大ざっぱな現代の字図(あざず)ができそうです。そう考えて作ったのが下の地図です。


 正確とは言い難いものですが、だいたいの感じはつかめます。

 サンシャインにじが丘以外の開発登録簿も見てみましょう。

「開発区域に含まれる地域の名称及び面積」の欄に「大字金谷迫字花グリ1339番地ほか149筆」とあります。

 旧金谷迫(かなやざこ)村の「花グリ」とはどこでしょう。

 旧三芳村の「字ノ辻」は旧金谷迫村との村境でした。

 地図上で青葉台団地の広がり具合を見ると「字ノ辻」に隣接した場所が「花グリ」と見ていいと思われます。



 ということで地図に「花グリ」を加えてみました。

 上の地図では「光政」も四角で囲っています。この小字はパークシティ季の坂の開発登録簿(右の資料)にありました。

 「開発区域に含まれる地域の名称及び面積」の欄に「大字三芳字光政710番の4 外169筆」とあります。
 
 そういえば季の坂3丁目は「大字三芳字亀甲」でした(「小字あれこれ その③ もう一つの目印」参照)。

 季の坂は幾つかの小字に跨って開発されていることが公的な資料で確かめられました。にじが丘や青葉台、高崎なども同じでしょう。

ぴったりこない駄原村の地図



 志手の後背地では「青葉台」「にじが丘」「季の坂」のほかに「高崎」「高尾台」という団地も開発されました。

 上の写真は最も新しい団地「グレイスタウン青山」の入り口です。



 上は大分市役所でコピーしてもらった「高崎」と「高尾台」の開発登録簿の一部です。

 「開発区域に含まれる地域の名称と面積」の欄を見ると、「高崎」は「大字駄ノ原字大高尾1533ほか322筆」で、「高尾台」は「大字駄の原1584ほか149筆」となっています。

 高崎、高尾台とも旧駄原村内のようです。高崎の開発登録簿にある「大高尾」の場所を昔の村図で確認してみます。


 駄原村の村図の一部です。「大高尾」に〇を付けました。

 このブログの筆者が想像していた位置とは少し違います。今の地図(下)とはピタリと重ならない感じです。


 とりあえず高崎1丁目1番地付近が「大高尾」であると仮定して上の地図を少し加工してみました。

 それが下の地図です。

 

 「1丁目1番地」付近に赤い〇を付けてみました。地図の上の方に赤い楕円形が分かるでしょうか。

 ここが大高尾だとすると、


 スカイタウン高崎は大高尾のほか、周辺の「平原」「梅山」「奥ノ地」あたりも含まれるのでしょうか。現在の「高崎」にあたる小字がどこか、現在の地図と明治時代の地図がうまく重なり合いませんでした。

小字名から浮かび上がる昔の姿



 小字名を知らなくても今の生活に困ることはないでしょう。そういう意味ではどうでもいいような話を長々としてきました。

 ただ、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者にとって小字名は興味深いものです。例えば「田」が付く小字はその由来が明らかです。

 「栗迫」「平原」なども何となく想像ができます。

 こうした小字名から、その地域の昔の姿、地域の住民の暮らしが見えてくるような気がします。

 一方、語源が分かりにくいものもあります。例えば「光政」です。これはどんな意味が込められているのでしょうか。

 なぜ、昔の人々はこの地域をそう呼んだのか。それぞれの小字名の由来を知りたいとも思います。

 小字を調べる第一段階として昔の地図と今の地図を照らし合わせる作業を試みましたが、結果はいま一歩という感じで、中途半端に終わってしまいました。ここまでお読みいただいたとしたら申し訳ありません。

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